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第三章 選ばれなかった妻2

Penulis: 相沢蒼依
last update Tanggal publikasi: 2026-08-14 11:55:21

 静かな部屋に、その一言だけが重く落ちた。

「……何を言ってるの?」

「本気だ。母さんもずっと言ってるだろ。子どもができれば、夫婦は変わる。昨日のことも忘れられる」

 澪は首を振った。

「違う」

「違わない。今はお互い、感情的になってるだけだ。だから――」

 その手が、澪の肩へ伸びる。反射的に一歩後ろへ下がった。

「触らないで」

 震える声だった。

「澪?」

「今は……そんな気持ちになれない。お願い。少し時間をちょうだい」

「時間? 夫婦なのに?」

「夫婦だからこそよ」

 澪は静かに答えた。

「私は今、とても傷ついている」

「昨日のことなら、説明したじゃないか」

「説明じゃない。私はあなたの口から、本当の気持ちを聞いたの」

 智也の表情がわずかに強張る。

「……電話を聞いてたのか」

「偶然、聞こえてしまったの」

「あれは……仕事の付き合いもある。誤解されることだってある」

 苦しい言い訳だった。

 澪は悲しそうに微笑む。

「じゃあ聞くね。私は責任上の存在なの? 好きじゃないの?」

 智也は黙った。その沈黙だけで、十分だった。

「答えなくていい。もう分かったから」

 その一言が、智也の苛立ちを刺激した。

「何なんだよ! 俺だって色々考えてる! 会社のことも、将来のことも! だから、子どもを作ろうって言ってるんだ!」

「違う!」

 澪は、思わず叫んでいた。

「子どもは、関係を繋ぎ止めるために作るものじゃない!」

 部屋の空気が凍りつく。

「私は……愛されているって思えないまま、そんな気持ちで子どもなんて産めない。お願いだから、今はやめて」

 智也は唇を噛んだ。納得できなかった。

 昨日まで何も変わらなかったはずなのに、たった一日で澪が別人のようになってしまった。

 このまま距離が開いてしまう気がした。焦りが、理性を鈍らせる。

 智也は澪の腕を掴んだ。

「離して!」

「落ち着けって!」

「嫌!」

 振り払おうとした拍子に、身体が引き寄せられた。澪の恐怖が一気に膨らむ。

「やめて!」

 乾いた音が部屋に響いた。

 パシン――。

 二人とも動きを止める。智也の頬が赤く染まっていく。澪自身も、自分が何をしたのか理解できなかった。

「……」

 智也はゆっくりと頬に手を当てる。

 人生で初めて澪に叩かれたことで、怒りがじわじわと込み上げる。

「澪――!」

 思わず手が上がる。しかしその瞬間、澪は後ろへ大きく身を引いた。

「いやっ!」

 泣きそうな声だった。

 そのまま踵を返し、寝室を飛び出す。バタバタと足音が響き、トイレの扉が勢いよく閉まった。次の瞬間――。

「……くっ」

 えずく声が聞こえた。何度も苦しそうに息を吐く音が続く。

 智也は怒りを忘れ、その場に立ち尽くした。

「澪? おい、大丈夫か?」

 返事はない。

 トイレへ吐き出す音だけが聞こえる。智也の頭に、一つの可能性がよぎった。

(まさか……)

 最近、母が何度も子どもの話をしていた――体調不良と吐き気。タイミングも重なる。

(妊娠……?)

 もしそうなら、さっき自分は何をしてしまったのだろう。

 智也はトイレの扉を見つめたまま、静かに拳を握り締めた。

「澪、大丈夫か」

 返事はない。扉の向こうから聞こえるのは、苦しそうな呼吸だけだった。

「病院へ行こう。救急なら――」

「……大丈夫」

 掠れた声が返ってくる。

「少し休めば治るから」

 明らかに無理をしている声だった。

 智也は眉を寄せる。

(――やっぱり妊娠かもしれない)

 さっきの吐き気。顔色の悪さ。ここ最近の様子――全部がつながる気がした。

 もし子どもができているなら、なおさら放っておけない。

「澪、鍵を開けて。病院へ行く」

 そのときだった。

 ――ブルルルッ。

 リビングに置いた、智也のスマートフォンが震える。一度無視するが、すぐにもう一度鳴った。

「少し待ってて」

 智也はリビングへ戻り、画面を見る。表示された名前に、小さく目を見開いた。

 白石琴葉――こんな時間に。

 電話に出ると、聞こえてきたのは女性ではなく男の声だった。

『御子柴さんですか? 白石さんの会社の者です。白石さんの体調が悪くなりまして……ひとりでは、病院に行けないと言われてしまって』

「琴葉の様子は、その……かなり悪いんですか?」

『実は、歩ける状態ではなく……連絡先に御子柴さんのお名前があったので』

 相手とやり取りしながら、智也は考える。

 澪を病院へ連れて行くべきか。それとも琴葉のところへ向かうべきか。

 本当に迷った。

(澪は家にいる。少し休めば落ち着くかもしれない。でも琴葉は、外で一人だ――)

 心の中で、言い訳が積み重なっていった。

「分かりました。タクシーを呼んで、すぐに向かいます。場所を教えてください」

 行き先を聞いた後、通話が切れる。

 智也は小さく息を吐き、トイレの扉を見た。中ではまだ水の流れる音がしている。

「澪。会社から連絡が入った。急ぎの用事ができた」

 扉に向かって声を掛けが、返事はない。

「今日の君は、少し感情的になり過ぎた。俺も冷静じゃなかった。だから、お互い少し距離を置こう」

 トイレの向こうで、小さく息を呑む気配がした。けれど智也は、気づかないふりをする。

「頭を冷やせば、また普通に話せる」

 そう言い残し、玄関へ向かった。靴を履き、ドアノブに手をかける。一瞬だけ振り返るが、閉ざされた扉は静かなままだった。

「……行ってくる」

 ドアが閉まる音だけが、部屋に響いた。

***

 ドアの閉まった音を聞きながら、澪はトイレの扉をゆっくり開ける。

 胃の奥はまだ気持ち悪い。けれど、それ以上に胸が苦しかった。

 扉の向こう側で、智也が迷ったのが分かった。

 そして――自分ではなく、琴葉を選んだ。その事実だけが、嫌というほど伝わってくる。

 壁に背中を預け、力が抜けてその場に座り込む。

「……そう。これが、答えなんだ」

 どれだけ信じてもどれだけ支えても、最後に選ばれるのは自分ではない。

 ぽろり、と涙が一粒落ちた。

 その夜、御子柴智也は体調を崩した妻を家に残し、白石琴葉のもとへ向かった。

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  • 妻の100万円の願いは拒否、初恋相手には5000万円⁉ 離婚後の天才妻は御曹司に溺愛される   第四十二章 明らかになった代償

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